じぇんこ

おばんです。


最近、お昼時にスーパーに行くことがあって、お惣菜とか弁当コーナーを久しぶりにじっくり見ました。
実家に戻ってきてからの1年は、その一角にお世話になることがなかったし、そもそも、ほぼ毎日弁当持参です。
だから弁当を持っていかない日に、職場のみなさんと一緒に足を運ぶお昼のスーパー自体とても新鮮でした。


ずらっと陳列されていたのが、250円弁当。とんかつ&ごはんのすんごいボリューム。
確か、イオンが298円弁当を販売したのが格安弁当のはしりだったと思うのですが、それにしても安すぎる。
税込262円の弁当で腹いっぱいになって自分が満たされても、世の中に回るお金が262円。
それっていいことかなって思ってしまう。


目の前にある弁当が食卓に上がるまでを辿ってみると、まず、スーパーで陳列・販売、盛り付けるひと、調理するひと。
そっから更に遡ると、スーパーに食材を運んでけだひと。もっと遡ると、農業や漁業に携わるひと。
想像すれば、いろんな人の手が大切に添えられてるのと同時に、いろんな人の生活が関わってるのがわかります。
いただきます、って手を合わせるときには、その人たちにを思いを巡らせます。
税込262円の弁当は、自分のとこに届くまでの過程のどこかを省くことで、破格の価格になりうるものだと思うけれど、
その格安が、誰かの暮しを支える一部になるのかなあと考えると、ちょっと疑わしい。
むしろ、262円弁当の裏側で、誰かの暮らしが苦しくなっているのではと心配になる。
うちの父は、「使わねば回んねべ、じぇんこ」とよく言うのですが、私は本当にそうだと思っています。
(「じぇんこ」は、お金・銭のこと)
大切に食物を育ててくれた生産者から売り場まで関わる人たちの生活がきちんと満たされるよう、
お金がどう生きるか考えて使おう、ということ。お互い支えあって、ということでもあるはず。
食べ物に限らず、売られているものならなんでもそうですね。


こんなのは、理想論かな。
「本当にぎりぎりっていう生活を知らないからそんなことがいえんのよ!」と言われたら、申し訳なくなる。
でも、やっぱり、働いて稼いで自分のとこに回ってきたお金は、自分ひとりのお金じゃないとも思う。



いま、田んぼには水が張られて、水色とかちぎれ雲、飛んでくトンビまできれいに映っています。
さっそく田植えに精を出すじさまたちも見たし、腰を折って農作業するばさまたちも見た。
こういう暑い日に、食物を大切に育てるひとの生活は満たされているのかしら、と思うのでした。



せば、まんづ。