問題は『旧』をどこに持ってくるのかだ

三月の震災で、土沢の元銀行の支店とされる煉瓦建築(以降、赤レンガ)が少なからぬ被害を受け、先日遂に解体されたらしい。
私がこの赤レンガを始めて目にしたのは二年前の「アート@つちざわ」というイベントを見るためにに土沢地区へ行ったと時である。
岩銀中の橋支店の様な大きなものでは全く無いが、田舎の市街に良く似合う小ぢんまりとした、しかし重厚な安定感のある街道筋のアクセントの様な建物であった。
当然営業はしていなかったが一目で元銀行と分かる建物だたし、もっとPRしても良さそうなのに、なぜか建物の由来を教える看板等は無かった。
世間では「岩銀の旧支店」とも「旧岩銀の支店」とも言われているこの赤レンガだが、もうそろそろ(と言っても手遅れだが)旧岩銀なのか、岩銀のなのかはっきりしてもらいたい。
確実に言えるのは、旧岩手銀行の支店であった事だ。これは玄関のマークからも間違いないだろう。だが、現岩手銀行の社史には全く違う建物が岩銀土沢支店として載っていた。どちらかと言えばこちらのほうが見事であった。
いやはや謎は深まるのである。
因みに、現在の岩手銀行は元々岩手殖産銀行という昭和に出来た新しい銀行で、それ以前にあった岩手銀行とは何の関係も無い。
そして土沢の赤レンガにあるマークは旧岩銀のもの。この建物が殖産銀行に引き継がれたのかは怪しいところである。
ついでに言うと岩銀中の橋支店は、新しく中央通に本店が出来るまでは岩手殖産銀行時代から本店だったし、殖産銀行の本店になる前は、盛岡銀行の本店だった。向かいにある盛岡信用金庫本店は岩手貯蓄銀行の本店だった建物。盛岡信用金庫の前身は盛岡信用組合と言い、その本店は現在盛岡信用金庫六日町本部があるあたりに存在していた。
現役の銀行建築ではないが、賢治啄木青春館が今まで辿ってきた道のりは複雑だ。
最初は九十銀行の本店として建てられ、岩手の金融恐慌も何とか乗り切れそうだったのにも関わらず、石井知事の発言により、いろいろあって他の銀行同様駄目になり、岩手貯蓄銀行を経て、岩手殖産銀行盛岡支店となり、のちにいわぎんリースデータとなりやっと現在に至るのだ。まぁ、この建物は来歴の割には依然そこにあるし幸福な方だろう。
斜め向いにあった旧岩手銀行の建物など昭和50年代に壊され現在は駐車場である。
旧岩銀が潰れた後は、労働金庫が入った様だが、自分らが建てた訳でもない建物に愛着は湧かなかったのだろう。現在も残っていれば、市内三行の旧本店が全て残っていた事になるのに全く持って残念。
旧三行の本店の他にこの付近には安田銀行盛岡支店があった、現在のみずほ銀行盛岡支店のことである。以前は富士銀行盛岡支店だったが、この建物も現在のものに建替えられる前はなかなか立派な建物だった。現存していれば帯広、横浜、小樽にも兄弟建築があるので、セットで語られただろうに、盛岡らしさが無いと言う理由で、役所は解体の許可を出してしまった。わざわざ富士銀行側から市役所にお伺いをたてたのに、何とも変な理由で解体許可を出すのだな。
さて、土沢の赤レンガであるが、今回は残念ながら解体されてしまった。
仕方ない理由であるが、もしかしたら旧岩銀の建物で唯一現在まで残っていたものだったのではなかろうか。だとしたら仕方の無い理由とはいえ大変残念である。