66年前の話

終戦の日なので、じいちゃんと毎年恒例の話をしました。
私の日記にちらちら登場する、じいちゃんの若かりし頃の話です。



じいちゃんは中等学校の時に軍需工場に動員されて、
秋田を離れて群馬に働きに行っていました。
15歳とか、そのくらいの歳。
動員先の軍需工場は、当時飛行機製造で最大手の中島飛行機、太田工場。
じいちゃんによると、そこでの労働者が6万人、学徒が7千人くらいいる、
中島飛行機社の中でも一番大きい工場だったそう。
とてつもなく広大な工場だったのに、出入り口が4つしかなくて、
逃げないようにいつも見張りの兵がいたらしい。
じいちゃんは、ジェラルミンを切ったり、穴をあけたりする仕事をしていたんだけど、
なにせ一日12〜15時間程働かされるもんだから、
うとうと眠くなって、へまをやらかすと思いっきし殴られる。
それに、国内最大の工場だったからB29が爆撃に来るし、
爆弾を吐きだす腹を見ては山の中を走って逃げたな・・・
なんて、じいちゃんは結構楽しげに話します。




昭和20年の5月、じいちゃんは予科練を受験した。
予科練というのは「海軍飛行予科練習生」の略で、受かれば短期実習の後、
特攻隊として戦闘に行く人のこと。
じいちゃんは特攻隊になりたかったわけではなかったけれど、
それでも、受験した。
どうしてだと思う?



予科練習の試験というのは本籍地で受験する決まりがあったらしく、
みんな、うちに帰って、たらふくご飯を食べたい、
ただ、そう思っていたんだって。
ふるさとに一時でも帰られるんだったら、と受験する人も多かったそう。
じいちゃんもそれ同様、秋田に帰りたくて、
ご飯を腹いっぱい食べたくて、受験した。
試験の合否は、同年8月。


そうこうしているうちに、太田工場が5月に爆撃を受けて工場そのものがなくなって、
列車の窓にしがみついて、秋田に帰ってきた。
男鹿で石炭の積荷の仕事もあったけど、体が細くて弱って出来ず、実家に戻されて、
8月15日を迎えたそう。
結局、予科練の試験の合否はわからないまま。


玉音放送、聞いだがどうが、覚えでねなしゃ、
でも、みんなよ、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び…って繰り返してらっけおんなあ…





こういう話を聞くたびに、
私がここにいられるのはなんて奇跡的なことなんだ、と改めて思う。
じいちゃんが経験したようなことは、戦火をくぐり抜けたひとなら誰でも、
同じような話があるはず。
そういうのを、いっぱい聞いておきたいって、思うんだ